2025-10-15
万博とわたし①
2025年9月のある日
わたしは一人、万博にいた。
静けさの森を抜けてウォータープラザまでがお気に入りの散歩コースになっていた。
気持ちがいい空気に包まれていたけれど、心の奥の方にずっと靄がかかっている。
巨大な建築、見たことのない景色に驚いて、自然に触れて、風を感じて、夕陽を眺めて、多くの人々が感動している。
この熱狂の渦の中に、なぜわたしのアートがないんだ・・・
溢れそうになっていた涙がスーッと引いた。
とても冷静になれた。
心の奥の靄の正体。
知ってる。
わかってる。
わたしは自問した。
自分の気持ちを誤魔化したまま
この先ずっと生きていくつもりなの?
ニューヨークで出逢った若き友人たちの顔が浮かんだ。
彼らは今きっと、夢中で志事に取り組んでいるだろう。新たな目標を掲げている子もいるだろう。現実の壁にぶち当たっている子もいるだろう。
あの頃のわたしの年齢にもまだ満たない彼らに、これからどんどん夢を叶えていく準備をしている彼らに、「仕方が無かったんだ」と言い訳するのか?
どんな顔して会えばいいの?
どんな想いを抱えて、この先ずっと、
レッドソファをやりつづけるの・・・?
わたしは彼らの前で宣言したのだ。
万博に帰ってくると。
遡ること約7年前
2018年11月
初めてのニューヨーク旅行からの帰路、空港から自宅へ帰る電車の中。
その頃のわたしは、初めて日本で企業とのタイアップ企画が決まった頃で、帰国したら即着手する予定だった。プレッシャーのドキドキとワクワクが入り混じった高揚感と、やっとこれから登っていけるんだ!と、力強く地を踏みしめるような気持ちとが同居していた。
ニューヨークへは、きっとすぐに帰ることになるだろう。向こうで仕事したりするのかな?東京にも出たいな。そんなことを考えていた時に、スマホのニュースが目に飛び込んできた。
【2025年 大阪万博が決定!】
声が出たか、震えたかは覚えていない。
ただ記憶しているのは、
「あぁ・・・わたしまだ・・ここ(大阪)に住むのか。」と。
7年後の自分の年齢・・・
それまでに万博で活躍できるアーティストになっていなければ。
おそらく開幕まで4年を切ったあたりからクリエイティブ関連が急に動き出すとして・・そのスタートに間に合わせるにはどうしたら・・・?
・・・結婚と出産は・・・・?
・・・・・・どうするの?
絶望と希望が渦を巻いていた。
それから7ヶ月後
2019年夏
わたしは再びニューヨークにいた。
レッドソファといっしょに。

*レッドソファ=【旅する赤いソファ】に関しては記憶がまだ薄れないうちに記録を残して置きたいと思っていて、まだしっかりと文章化できていないのだけれど、現時点ではわたしのライフワークとなっているので、わたしの人生と共に物語る本をいつか出したいと思っている。
ここでは、レッドソファの取り組みを知ってくれているという前提で話を進めます。
2019年6月某日
仲間を集めるために何かきっかけはないかと色々と探していたところ、ニューヨーク在住の日本人用のネット掲示板で見かけたオープンマイクに出ることになった。
そこで、自分より10歳以上も若い表現者の仲間たちに出逢った。
一人でも仲間がほしい!という想いで、
熱を込めて彼らの前でプレゼンした。
日本で作ってきたプレゼン用PDFの一番最後のページに、『世界を旅して2025年に万博で大阪に帰ってくる!』これをまず一つ目の旅のゴールとして。

実際にはこの時、まだ万博の情報が何一つ入ってきていなかった。だから、今一番HOTなキーワードに乗っかろう!という具合で、掲げた目標だった。
だって、それよりもまず、わたしはここニューヨークで第1回目を成功させねばならなかったからだ。
レッドソファの存在意義、自分の人生の中での意味は、このあと第一回目タイムズスクエアで成功して転がるように様々な場所でやり切っていく上で体感しながら気づいたことで、当初はこんな壮大なことになるなんて、わたしの人生をこんなに変えることになるなんて、想像出来ていなかったのだから。


7月後半に帰国して、そこからさらに5ヶ月後。
2019年12月
わたしはまたニューヨークへいこうと予定していた。年末のカウントダウンにあるホテルで開催されるパーティーのステージビジュアルができるチャンスを掴んだからだ。
出国の10日ほど前だったか、一本の電話が鳴った。
一年前に出逢って、名刺交換しただけのある方からだった。
『白子さん、万博の公式ロゴマーク応募してみませんか?』と。
コンペサイトをよく見ていたわたしは、万博の公式ロゴマークの募集の件は知っていた。
応募しようとしていたところに、この電話。
今回の万博は共創がテーマだから、一人で出すよりチームで出した方がいいはずだ、と。
白子をアートディレクターに置いてチームを作りましょう、と。
なるほど、それは面白そう!
これも何かの縁だ。
二つ返事で了承した。
なぜ、わたしに声を掛けてくれたのか、後から聞いたところ、「白子さんのレッドソファの取り組みをSNSで見て、こんな面白いことをする人はどんなロゴを作るんだろう?と興味が湧いたから」ということだった。
やることすべてが繋がっていく。
今思い返しても本当に色々懐かしい。
ロゴマークの件は、グランプリを逃したという結果を踏まえて記事を書いているので、気になる人は読んでみてほしい。
https://www.shiraco.world/osakabampakulogob/
ロゴが生まれた経緯は、書く書くといいながら、結局書かないまま万博は終わってしまった・・・記しておきたい気持ちはあったんだけど。
2020年夏
グランプリが決まったのは発表当日だったのだけど、その前に、最終選考まで残った5組がそれぞれ万博協会と弁護士の先生らと会って色々な取り決めを交わす機会が設けられ、わたしたちも咲洲へ行った。その時の契約の中に、グランプリを獲ってロゴが採用された場合、万博の中枢には関われない、というものがあった。
ロゴが決まってしまったら、わたしはアーティストとして万博に大きく関わることはできないんだ・・・
グランプリ獲りたいけど・・・
でも、万博を舞台に大きなこともしたい。
結果は神に委ねた。
神はわたしに選択の自由と可能性を与えてくれた。
2020年といえば、年が明けてニューヨークから帰国し、次はレッドソファでヨーロッパツアーをしたい!ニューヨークでアーティストビザも取りたいなぁ!と妄想していたら、瞬く間に聞いたこともない謎のウイルスが世界中に蔓延。コロナ禍のはじまりだった。
世の中は自粛モードで、パーティーや飲み会は軒並みなくなり、わたしはフリーランスなのでそれまでは人が集まるところに出掛けては名刺交換をし、人との繋がりを広げていっていたのに。
周りからも言われた。グランプリ逃して残念だし、コロナがなければ、万博の中枢にいる人たちとも交流があっただろうに。タイミング悪かったね。と。
うん。
でも、そんなこと言っても、ねぇ。
それでも万博協会や万博の中枢に関わる方何人かとお会いしたこともあり、その度に、「白子さんはロゴマークで準グランプリだった人で〜」という紹介をしていただき、この実績が効力を持つのもあと数年もないのか、なんてことを考えていた。
わたしは自ら選択した道を歩んできたから、何に関してもすべて必然だと思えるタイプで。
コロナ禍もそうだった。
レッドソファがヨーロッパツアーに行けないのは残念だけど、きっと今こそシンプルになって、自分と向き合う時なんだと。
そして、生まれたのが【alive】だった。

わたしはずっと空間を創ることが好きで、初めて開いた個展からずっとインスタレーションで表現してきた。
だから、インスタレーション作家として大きな空間で作品を展示することをずっと夢みていた。
そういった経緯もあって、
自粛期間中、ひたすら制作に勤しんでいく中で、表現したいものが見つかった。
これまでとは違った意識でいのちと向き合い新たな表現を見出した。
表現したいものがあるということ。
それはアーティストにとって生きるチカラとなる。
それにより、わたしはコロナ禍が意味のあることだったと確信できた。
レッドソファが無期限延期になっても、表現者としての本質は変わらない。
そこから自分の中で万博に向けての夢が鮮明に広がっていった。